2018年2月1日木曜日

学校通信『かがやけ』2月号

 ~ 説教の効果は その長さに反比例する 
        「こころの処方箋」 河合 隼雄 著より

 いわゆる「説教」というものは、もともとあまり効果のあがらぬものである。

上司が部下に、先輩が後輩に「そもそも・・・・・・」という調子で、注意すべき点や、よく考えるべき点について述べる。時には、「俺の若かったときは・・・・・・」などと体験談がはいるときもある。総じてそこに語られることは「有難い」ことや、有益なことなのだが、どうも効果の方は、もうひとつあがらないのが特徴的である、と言ってよさそうである。

 特に、説教が長びくほど効果はないようである。聞かされる方は、「いつ終わるか」ということのみに関心があって、語られている内容にはほとんど心を向けていないことが多い。そしてまた不思議なことに、「もう終わりだ」と思っていると、「しかしだな・・・・・・」という調子で同じことが繰り返し語られたりして長くなるのである。

 だいたい説教する側の人は、それまでにさんざん説教を聞かされてきた経験をもち、説教は長びくほど効果のないことを知っていそうに思えるのだが、それにもかかわらず、説教はえてして長びき勝ちとなる。いったいこれはどうしてだろうか。それはまず、説教で語られる話が、何といっても「よい」話には違いないので、話をしている本人が自己陶酔するので長くなるようである。平素の自分の行為の方は棚上げしておいて、「よいこと」を話していると、いかにも自分が素晴らしい人間であるかのような錯覚も起こってくるので、なかなか止められない。

 その上、説教をしながら、何となく自分の言っていることが相手の心にとどいていない、効果をあげていない、ということがうすうす感じられてくるので、どうしても同じことを繰り返したり、だめ押しをしたくなったりして、長くなるのである。説教をしていて、同じことを繰り返さない人は稀であろう。

 説教を効果的にしようと思うなら、短くすることを工夫しなくてはならない。自分が絶対に言いたいことに焦点を絞る、繰り返し同じことを言わない、と心に決めておく。そうすると、説教をされる側としては、またはじまるぞ、どうせ長くなるのだろう、と思っているときに、パッと終わってしまうのでよい印象を受け焦点の絞られた話にインパクトを受ける。もっとも、こうなると「説教」というものではなくなっている、と言うべきかも知れない。つまりは、説教が短いほど効果があがるのであってみれば、説教などしない方がいいのではなかろうか。それは無いにこしたことはない。

 にもかかわらず、説教はなくならないし、あちこちでよく聞かされる。その理由は、説教というものが、説教する人の精神衛生上、大いに役立つものであるからであろう。部下からみると、上司は勝手なことをしたり、威張ったりしているように思えるが、上司は上司なりにいろいろと苦労しているものである。このことは親と子、教師と生徒などの間においても言えることである。上司は上司なりに欲求不満がたまってくると、そのはけ口として部下に説教をする、というのが実情ではなかろうか。既に述べたように、言う内容としては、自分ながら感心したくなるようなことを言うわけだし、精神衛生という点から見て、なかなか効果の上がる方法である。

 人間はお互いさまで、他人の精神衛生のために助け合っているのだから、部下の方もこのあたりのことがよくわかってくると、説教をいやいや聞くのではなく、説教している人の精神衛生のために御協力しているのだと思って、もう少し温かい気持ちで聞けるのではなかろうか。

 このあたりのアヤに気づかず、自分は部下のことを思うあまり、説教をしているのだと心から信じている人もある。このような人に対しては、適当な処方箋を見つけるのが難しくて、敬して遠ざけるくらいのことしか出来ないのではなかろうか。好きにはなれなくても、敬することぐらいはできるだろう。何と言っても、その人が御立派であることには間違いないのだから。

 説教する側としては、説教はしないにこしたことはないわけだから、自分の精神衛生を上手に保つことがまず大切であろう。精神衛生がうまく保たれていると説教する気などあまり起こらないものである。そして、説教をしたくなった場合、その背後にどのような欲求不満が存在しているかを考えてみるのもいいだろう。他に説教して迷惑がられるよりは、自分の欲求不満を解決するために、どのように取り組むべきか考えてみることの方が得策のことが多い。そのことに心を使っているうちに、説教することなど忘れてしまう。
 
 なんでも理想どおりにはできぬので、時には息抜きに説教をやらして頂いている、と思いつつするのが、いいところであろう。