2018年3月1日木曜日

学校通信『かがやけ』3月号

 
 『 人は一人では悪くならない 』   托鉢者 石川 洋

 

時代の波というものなのか。最近、子どもの問題で相談に来られる親が多くなった。自分自身の問題を抱きかかえて生きている私のような者に、他人様の子どものむずかしさを解決してさし上げる内容などは持ち合わせていない。

それでも、私の本を読んで来たのでと言われると、話をお聞きしないわけにはいかない。そんな時申し上げる一事がある。昔、私の母の女学生時代のころの話である。母の田舎に天香さんが講演に来られ、その晩、母の実家に泊まって下さった。その折、長男のことで両親が天香さんに相談をされた。天香さんはしばらくして「人は一人では悪くならないのですよ」とポツンとおっしゃられた。

それをお茶の接待をしていた母が聞いた。みんな兄さんのことを咎め困っていたが、この先生は、問題は一人一人にあるのですよと静かにさとされた。母は感動し、女学校を卒業すると、兄を伴って京都の一燈園の道場に飛び込んでいく。

天香さんと私の縁は、その時の導きにさかのぼる。その不思議な法縁を心の置き処とするために「人は一人では悪くならない」を私の守り本尊とさせていただいている。

私は、少年院をお訪ねすることがある。「今日は、おじさんは皆さんにお詫びに来たのです」と掌を合わせて拝ませていただいている。涙をこぼしてくれる少年もいる。親が「ごめんね」と一言いえば、この少年たちの人生も変わっていたのではなかろうかと込み上げてくるものを覚える。

後から送られてくる感想文に、「今日は変なおじさんが来て、ごめんなさいといわれた。おじさんは少しも悪くないのにと、変な気がした。でも、夜になって、どうしても一人になるとふくらんでくる外にいる仲間への憎しみが不思議に消えていた。石川先生ありがとうございます」と書かれていた。私もうれしかった。

子どものことで苦しみ悩んで来られるお母さんに、面と向かって“ごめんなさいね”と口に出して子どもに詫びることは出来ないだろうし、受け入れてもくれないことだと思う。ですから、子どもが寝入ってから、枕元に手をついて「ごめんなさいね」とお詫びをしてごらんなさい、と申し上げることにしている。

けげんな顔をして、そんなことで効果があるのですかと言われる方がある。でも、素直に実行している母親から「随分荒れまくり、手の付けられない子でしたが、いつの間にか落ち着いてやさしい子になりました」と、喜びと安堵の報告をしてくれることがある。

天香さんは「子どもは天からの預かりもので、親が私物化してはならない」、また子どもを育てることを「拝育」と言われた。学校の子どもを「学校さん」と言われ、決して呼び捨てにはされなかった。

最後に大切なことをつけ加えよう。なぜ枕元で「ごめんなさい」と子どもに詫びると子どもがだんだんと落ちついて変わっていくのか。それは、実は子どもが変わるのではなく、親が変わったからなのである。親が変われば自ずから子どもが変わることを忘れないでおこう。

 

【西田天香】 一燈園のホームページより

天香さんは、1872年、滋賀県長浜の商家に生まれました。二十歳にして長浜地方の小作百姓農家を率いて北海道に渡り、500ヘクタールの土地の開拓事業に従事。その将来は事業家としても大いに嘱望されましたが、開拓事業をすすめる中で起こった資本主と現地耕作者との間に生じた利害の対立、争いに直面して、天香さんは大いに苦悩し、開拓事業そのものを他人に委ね、人間としての争いのない生き方を求めて求道の日々を重ねたのでした。そして、とうとう「争いの因となるものは食べまい」と決意し、三日三晩の断食籠坐の果て、赤ん坊の泣き声を耳にして大霊覚、そこに争わずとも恵まれる食があること、生命の原点を見出し、世にいわゆる「一燈園生活」を創めたのでした。
 それは、無一物・路頭を原点としての懺悔・下坐の奉仕、許されて生きる「托鉢」の生活でした。その事実に立って1921年、『懺悔の生活』が出版されるや、天香さんと一燈園の名は一挙に世に知れ、多くの人が道を求めて集まるようになります。倉田百三、尾崎放哉といった当時を代表する文化人も一燈園生活を送ったことで知られています。戦後は1947年の参議院選で当選。1968229日、96歳をもって帰光(逝去)しました。